杉原千畝の信念【日本の復興】命のビザ

東日本大震災、南三陸町
医師団60名を率いて日本に一番乗りしたのがイスラエル

命のビザ 杉原 千畝の信念 ニュースフロントライン レポート

3.11 南三陸町 地域の中核病院 志津川病院が津波の惨劇を受けた

そこに待ち望んだ支援
プレハブ6棟に、レントゲンや応急手術設備 
医師団60名を率いて日本に一番乗りしたのがイスラエル


その背景にあるのは・・・
イスラエル ベンシトリット駐日大使
南三陸町に病院を開設したのは私達の感謝の表れです。
スギハラ氏がイスラエル国民やユダヤ人にしてくれたことに対して
日本国民に少しでも恩返しするためです。」

杉原に救われた マーシャレオンさん
「彼がいたからこそ、私は今 生きている
スギハラはヒーローです。

杉原千畝 
戦前、戦後 外交官を務めた彼は国の命令に背きながら6000人のユダヤ人の命を救った。
正しいと思ったことを貫く生き方だった。

ドイツとソ連に挟まれたリトアニアは常に両国の侵略に怯える小国だった。
そこに領事館を作る狙い それは、ドイツとソ連の情報収集だった。

当時ナチスドイツは、ソ連との開戦をギリギリまで日本に伝えなかった。
それが伝えられる一カ月前に、いち早く察知し、日本に伝えたのは杉原だった。
1940年7月 ある朝
いつもは静かな領事館の前に、無数の人だかりが出来ていた。

1935年 ナチスドイツはニュルンベルク法でユダヤ人の市民権を剥奪。
ユダヤ人排斥を明確に打ち出した。
ドイツの勢力拡大と共に ヨーロッパ中を多い尽くした悪夢。
これが、反ユダヤ人政策  後の大虐殺 ホロコースト

ポーランドを追われ北に逃げて来たユダヤ難民達。
そうした彼らが辿り着いた一つが、リトアニアだった。

ユダヤ人代表
「我々はポーランドから逃げてきたユダヤ人です。
日本領事館に行けばビザが貰えると聞いてきました。
ビザを交付して頂きたい
ヨーロッパを脱出したい。
ユダヤ人にとって最後の望みが日本の領事館だった。
日本の通過ビザで
シベリア鉄道を経由して日本に脱出。
そこからアメリカなど第3国へ向かう。
それしか生き延びる方法がなかった。

だがそこには、数々の困難があった。
一つはソ連によるリトアニア併合だった。
ソ連は日本などに8月末までに領事館閉鎖を求めタイムリミットが迫っていた。
更に問題なのは、ユダヤ人救済は、ナチスドイツへの敵対行為となること。
同時に日本の国策にも反する最大の問題があった。

三国同盟 
日本、ドイツ、イタリアが三国軍事同盟を持つという流れに、
大きな流れが日本とドイツの連携にあったので外務省サイドとしては、決して認める訳にはいかないことだった。
日独伊三国同盟が結ばれたのは、この2カ月後の 9月

同盟締結直前のこの時期 ドイツとの関係に気を使っていた。

大量の通過ビザを外務省に問い合わせた杉原。
杉原氏
「ユダヤ人が日本を通ってよその国に行くから通過だけのビザをくださいと頼んだが、
外務省に聞いたが、外務省は頑として応じない。」

杉原と外務省とのビザを巡る駆け引き。
松岡外務大臣「旅費や日本滞在費用がないものには通過ビザを発給してはならない。
杉原「日本の他にビザを発給する領事館はない。
避難民は領事館の閉鎖を見越し、日本の通過ビザを求めている。
彼らに事情は同情に値する。
そのため、目的地のビザがない者、所持金が不足している者にも、ビザを発給しているので認めて欲しい。」
何度打電しても結果は同じ。
こうした
本国の命令は、外交官にとって絶対的な掟である。
元外交官 孫崎氏
「残念ながら、大使館の任務は、人道支援が任務ではない。
やり取りをした後、決定を外務省、日本政府がする。
それを、外交官は守らなければならない。」

杉原には分かっていた。
もし、彼らにビザを出さなければ、その先に待つのは過酷な運命だ。
杉原は悩み、自問自答する。
「対ナチ協調に迎合することによって、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで
ビザを拒否しても構わないとでもいうのか。」


妻 杉原幸子 1991年12月6日 徹子の部屋
「二人で二日二晩悩みました。非常に苦しみましたけど
主人は意思が強い人ですから、思ったことはやり遂げる性格ですから
何としてもこの人たちは、
人間として助けなきゃならないという気持ちが始めからあったようです。」


こうして杉原は、朝から晩まで300人分のビザを手書きで作り始めた。
愛用の万年筆は折れ、手は筋肉痛で腫れ。指には豆ができたという。
そして遂に、ソ連からも日本からも領事館閉鎖の最後通牒が来た。
杉原はそれでもあきらめなかった。
領事館を引き払った後、市内のホテルに休暇の名目で数日間滞在し、そこでもビザを書き続けた。
滞在を伸ばし、時間稼ぎをする杉原。
そして遂にリトアニアを立つ時が来る。
ドイツ行きの列車が到着。
尚もビザを求め手を伸ばす人々に杉原は列車から身を乗り出しビザを書き続けた。
「許して下さい。私はもうビザは書けない。皆さんのご無事を祈っています。」

ユダヤ人
「スギハラ 私達はあなたを忘れまでん。もう一度あなたにお会いします。」
「あなたの恩は忘れません。必ず会いに行きます。」

ユダヤ人たちは列車を追いかけ叫び続けた。
杉原は、こうして6000人のユダヤ人の命を救った。

敗戦後 祖国で待っていたのは、冷たい仕打ち。
外務省「もう君のポストはない。辞職して頂きたい。理由はおわかりでしょう。」
外務省を追われた杉原は、子供を抱え食べるための仕事に没頭する。
 電球売り、雑貨屋、塾の講師など

雑貨屋を一緒に手伝っていた甥の杉原直樹さん
「一緒に住んでいた時も、
外務省退職した話は一切語らなかった。ユダヤ人を救った話も聞かなかった
。」
その後、得意のロシア語を生かして商社の駐在員としてモスクワに単身赴任。
そこの元同僚 川村さん
「自分についてはまったく話さなかった。誰にでも温かく接する人柄だし、
決して、上から見下ろしたり差別したりしなかった。」

戦後の混乱を自ら生き抜いた杉原は、
一方で戦後、自らの体験を封印

その同じ頃 ある動きがあった。
ユダヤ人たちが次々来日し、杉原の消息を探していた。
「あなたの恩は忘れません。必ず会いに行きます。」
リトアニアで交わした約束。それを果たそうとしていた。
しかし、そんな彼らに外務省の対応は冷淡だったという。
「センポ杉原という人物は、いままで外務省にいた形跡がないからどこに行ったか分からない」
センポとは千畝の音読み。杉原は外国人が発音しやすいようにセンポと名乗っていた。
それでもユダヤ人たちは諦めなかった。
1968年 遂に探し当てた。このとき68歳
外務省を辞職に追い込まれてから20年
あのリトアニアの出来事
杉原は初めて身を投じて下した信念の決断 その顛末を知る。
杉原ビザで救われた、イスラエル宗教大臣との会談

アメリカ ニューヨーク
杉原ビザに救われた マーシャレオンさん80歳
「ドイツ軍は我々ユダヤ人を壁一列にならべ番号をつけていった。
そして夜明けに奇数の番号を処刑していった。
私と母親は偶数だった。そして残りはもう行っていいと言われた。
そのドイツ軍司令官の全くの気まぐれだった。」
マーシャさんは母親と杉原ビザを手に入れシベリア鉄道で日本に逃れる。
「日本を目指したのは、それがまさに生きることを意味していたからです。
想像も出来ないでしょうが、我々ユダヤ人にとって日本は本当に天国でした。
ソビエト軍はいないし、生命の危機もない。収容所も爆撃もない。」
こうしてユダヤ人をホロコーストから救った杉原のビザ
約6000人と言われる生存者の子孫は、今や25万人ともされる。
杉原が救った命 彼らは永遠に「このことを語り継ぐ。
マーシャさん
杉原は聖人です。彼はヒーロー以上のとてつもなく勇気のある人です。
なぜなら、ヒーローは偶然そうなれることもありますが、
勇敢であるためには、自ら決断しなければなりませんから、
彼は自分の心の声を聞いた人でした。」

一方杉原はリトアニアに残ったユダヤ人たちの結末を知る。
領事館のあったカウナスの処刑場で約5万人のユダヤ人が処刑された。

もし杉原がいなかったら6000人のユダヤ人も殺されていた。
杉原はそれを聞いて泣いたという。
ユダヤ人は必ず会いに行くという約束を果たした。
記憶の封印がとかれメディアで公となる。

1969年 イスラエル政府から勲章を授与。
1985年 ヤド・バシェム賞を授与
このとき杉原85歳 外出もままならない体
翌1986年7月31日 永眠(享年86歳)
その死から5年 当時政務次官だった鈴木宗男氏の働きかけにより
ようやく外務省と杉原氏側との和解

信念の外交官 杉原の生きざまは
今の日本人に何を伝えるのか

ペンシトリック駐日大使
「イスラエルにとって杉原は国民的英雄です。
ドイツの同盟国である日本の外交官としての立場にもかかわらず
6000人のユダヤ人を救うという個人的な決断をしたからです。
これは、私達にとって奇跡です。


マーシャさん
あなたは、自分の家族や将来を犠牲に出来ますか?
政府で働いていて汚職を発見したら、それを告発できますか?

杉原氏はそんな誰もができないことを世間の常識にとらわれずやり遂げた。
模範的な官僚だったらビザは発給されなかったでしょうが彼は違った。

千畝の息子の妻
「自分で決断したそこの強さですね。命に対する思いと強さ、大事なものは大事だという信念というか
何が正しい 何が正しくない ということではない。

その人が正しいと思ったことをすべき。



福島県生活情報局 総括・思案
杉原さんのような方が東電、経済産業省、原子力安全保安院に居たなら福島原発事故は起こらなかったでしょう。
彼らは、将来の日本より自分達の利益と地位保全を優先する生き方をしてしまいました。
でも、3.11を経験した以上 信念を貫く人が出てくると信じています。

私達、日本人全員に言えることですが、
これからの日本復興・再生にむけて自己犠牲を払ってでも人の為、日本の為、世界の為に
自分の信念を貫いて決断できる人間が
どれだけ居るかに掛っているようです。


私達が生きていて、
その時手にする贅沢や地位は本当に価値のあるものでしょうか?
本当の価値とは、人に喜ばれる感謝される事と
私達は知っているはずです。
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